近頃、「自己肯定感」という言葉をよく耳にします。今日はこの「自己肯定感」について触れてみたいと思います。
私は大学生時代、とあるキリスト教の非営利団体で学生ボランティアリーダー会という組織に入り、幼稚園児〜中高生までのメンバーさんたちを、年間通しての野外活動の引率をしたり、夏はキャンプ、冬はスキーに一緒に行くという活動に参加していました。単に、大学生が楽しく過ごすサークルとは違って、大切なお子様を預かる身。その団体のキリスト教精神に基づき、子ども達への関わり方を座学講習やリーダートレーニングで徹底的に学んで実際の活動に臨みます。もちろん一緒に活動していた大学生の仲間達とはとても楽しく過ごし、今でも付き合いは続いていて仲良くしています。
子ども達への関わり方についてはもちろん、ハンディを持っている人たちとの交流やバザーなど、色々なことに関わらせてもらえ、とても充実した学生生活を送ると共に、倫理観も養われました。
自分が結婚して子どもができ、幼稚園を選ぶ際も、同団体が運営している幼稚園が近所にあったこともあり迷わず入園を希望しました。子どもは思いっきり自分のやりたいことを伸び伸びとする、という方針と温かい雰囲気のもと我が子も親も楽しい幼稚園ライフを送ることができました。
キリスト教の精神が根底にあるので、神様へのお祈りは常で、聖書に書かれている教えを引用しながら先生方の思いなどがお便りで発信されることもあり、自分の子育ての手引きにさせていただくことも多かったです。
その中で「自己肯定感」について触れられているお話があったのを覚えています。
「自己肯定感」の高い子、低い子がいて、それは親の育て方に関係があるとありました。私は教育者ではないので具体的な例を述べることは控えますが、子どもが何かにチャレンジして、できた時、できなかった時の声のかけ方や普段の親の子どもに対する接し方によって、自己肯定感が育つ場合と育たない場合があるというのです。
大切なことは、子どもにとって自信が持てるように接するのか、自信を奪ってしまうように接するののか、ということかなと自分なりに解釈しています。
成功体験を味わう、ということも自己肯定感に繋がるとも思っています。
で、冒頭の最近よく耳にする、という話。
先日たまたま観ていたバラエティ番組に出ていた芸人さんが、コンビでは相方の人のインパクトが強くて目立っているため、自分は「○○(相方の方の名前)の相方」とか「○○じゃない方」とか呼ばれることが多く、個人としての取り柄に欠けているのが悩み。そんな彼が筋トレを始めたという話。
「筋トレを始めるとどんどん身体が鍛えられてムキムキになって自己肯定感が上がるんですよ〜」って話していました。
私にとっては、「自己肯定感」という言葉は、子育てにおける親の責任から生まれてくるものであって、とても重い言葉であるので少し違和感を感じてしまったのですが、巷のインタビュー映像とかをテレビで見ても、結構若い人がこれをしたら自己肯定感が上がってーみたいな話をしているんですよね。今では結構頻繁に使われる言葉なんだと気付かされました。
先ほども述べたように、自己肯定感は要するに「=自信が持てるようになる」ということなんですね。
最初は親が子どもに対してどのように接するかで育つ「自己肯定感」が、後々は自分の力で育むことができるということのようです。
些細なことであっても、自分にできるかな?と思っていることを頑張ってクリアできたり、チャレンジが続けられていることが自己肯定に繋がるということ。
今の若い人が気軽に「自己肯定感」という言葉を使うことに若干の抵抗を感じつつも、そういえば私もちょっとした取り組みが自信、というか、「私、ちゃんとできてる!」という認識につながり、ちょっと「私いい感じやん!」って認めてあげることができたりします。まさにこれは「自己肯定感が高まる」と言っていいのかな。
今年に入ってから、玄関の靴をみんな自由気ままに脱ぎっぱなしにしているのを、1日の終わりには必ず靴を並べることとか、粉末のダシを使わずにきちんと昆布と鰹で出汁を取っていることとか。。。
ちょっとした心がけで「私、頑張ってるやん」と思えることで自己肯定感が高まるということかもしれないな、と思う今日この頃です。

写真は6年前に家族旅行でロサンゼルスに行った時のもの。当時はまだ大谷選手がエンジェルズで活躍されていた時。この日は試合がアウェイ戦だったためショップで買い物をしただけでしたが、スタジアムの表に大きく写真が飾られていてさすが!周辺にも大谷選手がプリントされたサイン(日本で言う「のぼり」)がたくさん掲げられていました。大谷選手も自己肯定感の強い人ですよね。でも、彼はもちろん素晴らしいご両親に育てられたとは思いますが、ご自身も並々ならぬ努力のもと、苦悩も経験しながら自信を身につけられた方の1人です。